緋色のいざない
'96 MARGAUX
私の生まれ年のワインである。
父の誕生日をレストランで祝い、飲み足りないねなんて言いながら店を変えた。細い路地を一本入ったところにそのビルはあり、目的地のフロアに看板はない。看板のないフロアに着くと長身のソムリエが奥へと向かい入れてくれる。キャンドルの灯るテーブル席だ。
飲んできたワインを告げるとそのソムリエは何本かワインを持ってきた。その中に、'75のMARGAUXがあった。家族満場一致で決まった。
開けたコルクは粉砕し、僅かな欠片を残して殆ど原型をなしていなかった。ボルドーで有るにも関わらず、その華やかな香りからソムリエはブルゴーニュグラスにサーブした。香りを楽しみにしていたのだがなかなか開いてこない。なんせ42年間も眠っていたワインだ、仕方あるまい。しかし時を刻むごとに表情を変え、重厚さや華やかさが増してきた。
暫くの間、'75を堪能した。するとソムリエは一本のボトルを持ってきた。
「これ、私の賄いです。」
そう差し出したのは、'96のMARGAUXだった。
まさか、ここで生まれ年のワインに出会えるなんて…!
マルゴーは、長期熟成に向いているという。42年とは言わないまでも、20年とは若い方なのだろうか。同い年のワインを目の当たりにし、鼓動が早まる(酔いも少し回ったところだ)。
恐る恐る、グラスに唇を添える。
…複雑な味わいだ。
'75より若いだけあって香りはもう開いていた。しかし、なんというか複雑なのだ。
取っつきにくいような
やさしさのあるような
少し強気で
まだ少し不安を残して
まるで自分を見ているようで辛くて、共感できて。
目頭が熱くなるのを感じた。
そのワインは持ち帰らせてもらった。
幸せな、夜だった。
飲み会というと居酒屋を連想することが多いだろう。それもあってか、若者でワインが(特に赤ワインは)苦手という人が多いように感じる。
しかし、飲んで苦手だった人も飲まず嫌いな人も、一度試していただきたい。
今回私は(父の誕生日ということもあって)格付けの高いワインを飲ませてもらったが、世には安うまワインも多く出回っている。敷居は思ったよりも低いかと思う。
ぜひ一度、ワインの香りを楽しんで、チーズでも添えて。
いつも心に
部屋を片付けていた。
久しぶりに山積したものを本来彼らの居るべき場所に返してやると、どうも埃が溜まっているようだ。部屋の隅、物が置いてあった場所、棚の隙間…家を空けることが多いとまるで古い家にたどり着いてしまったようにさえ思う。埃を掃き、一息つくと今度は山積みの書類を目の当たりにする。
はあ…
ため息が漏れても仕方あるまい。そこには紙の山があるのだ(古いもので10年近く前のものもあったと思われる)。半透明の薄いプラスチック板に挟まれた無数の紙束一枚一枚に指を通す。
なんでこんなものを今まで取っておいたのだろうか。そう思うものも多々あった。懐かしくて大切に仕舞いなおしたものもあった。
取っておくものと捨てるものに分けてまとめて片付けは一通り終わり、気づくとリビングからはよだれが出るような匂いが漂ってきた。
価値観は、思ったよりも変化を続けるものなのかもしれない。
あれだけ大事だったおもちゃは、今では箪笥の奥に眠っている。
大事に貯めていた過去の成績表は、今では意味を成していない。
昨日の宝物は今日のガラクタなのか。
荷物も心も整えるときには”整理”という言葉をよく使う。
心の整理をした時にも、価値観は日々変わっていくのだろう。
抱いた夢は、野心は、いつしか消えてしまうのだろうか。
たったの一つだけでいい。
捨てられないぬいぐるみを枕元に置くように、すぐに手の届く引き出しに揺るがない心をそっと仕舞っておきたい。
実況・料理生物学
先日久しぶりに本を読んだ。ゆっくりと読書なんていつぶりだろう。もともとは読書好きであったが、勉強にその時間を奪われてかれこれ2年が経つ。本当はもっと本を読みたいものだ。村上春樹の新作の発売日が国立大入試前日というのは大きな痛手であった。ゆっくり読書に耽って気が向いたら僭越ながらそちらの書評も書きたいところだ。
さて、この本は私が駿台予備学校に通っていた時に師事していた英語教師の推薦書である。彼は英語教師でありながらあらゆる分野の学問に精通している(いったい何ヵ国語喋ることができるのか、未知数である...)。
私は以前から料理は科学であると思っていた。調理場はいわば化学反応の場であると。しかし、いったいどんな反応が中で起こっているのかは知らなかった。卵を熱すると固まるのはたんぱく質の変性だということは生物の授業で散々聞いていたくらいだ。この本にはカレー、麺、焼肉、酒、アイスなどなど「それも科学で考えるのか!」と思うものばかりが収録されている。
一方、生物学と聞いて敬遠した文系の方もおられるかと思う。しかし理系の私が無知である歴史的側面にも触れられていて文理問わず楽しめる書籍である(香辛料の歴史についてあまりに無知でお恥ずかしい)。
普段何気なく口にしている料理にはどのような歴史があり、食物のどのような特徴を生かしたものなのかがわかりやすく解説されていた。
なんといってもこの本の最大の特徴は台本のような形式で講義形式だという点だ。本を読みなれていない人でもこれなら読みやすいだろう。また、各料理毎に章立てされているため、読み止しもしやすい。
電車に乗るほんのわずかな時間に少しづつ読み進めるもあり、ベッドサイドで一気に読むのもまたあり、様々な楽しみ方で是非一度手に取っていただきたい。
素の顔
大人になると素直じゃなくなる。時には嘘も吐く。
それは悪いことなのか。
『嘘も方便』という諺を考えるとよくわかる。嘘を吐いたほうが無難な場面も出てくる。幼いころには考えられなかった複雑な思考回路が構築される成長の一環ともいえるだろう。
むしろ大人に対して”素直”というのは失礼にあたることもあろう。幼いころは誉め言葉であった言葉も年代に応じてニュアンスが変わるのだ。『正直になりなさい』と言われていたのはもう過去の話。今では『馬鹿正直』だと軽蔑される。
大人に習ったことを大人に叱られるとはなんと滑稽な話か。
実際、そういった場面はよくある。
昨今の政治ニュースを見ていると随所に見受けられるだろう。you should be...そう言われて育ったはずの大人もいとも簡単に破っている。
挙句、大人は大人に対してこういうのだろう
『もっと上手く生きなさい』
と。
…この流れでいうと、老人になったときには”うまく生きること”を軽蔑されるのだろうか。真偽のほどは今の私にはわからない。老人になるのが楽しみである。
先日久しぶりに高校時代の友人に会った。煌びやかな大学生活を送る友は御転婆であった高校の時より女性らしく、しなやかな印象を受けた。
化粧気のない私は一緒に写真を撮ってもらったとき僅かな惨めさを感じた。
なるほど、化粧とは素顔を隠すためのものというのも一理ある。
弥生の雨
春は、雨の多い季節だ。
入学試験や卒業式も多くは幕を閉じた。新生活に胸を膨らませるのか、はたまた予備校のパンフレットに手を伸ばすのか、新入生を迎えるのに心を亡くしているのか。おそらく多くの者が、3月までとは違う4月に向けて身支度をしているころだろう。
この春、私は大学生になる。
二年間浪人した私も愈々大学生に仲間入りできるわけだ。
昨今の大学進学率は50%を超えるという。その中でのたった一人の大学入学なんて雀の涙ほどだ。大学進学を目指す者は一律”受験生”と呼ばれ一括りにされる。私が通っていた予備校は、それこそ”受験生”の集まる最たる場だ。
しかし、彼らにはそれぞれドラマがあった。女子高出身である私にとって、共学のような環境は新鮮だった。男友達が増えた、”頑張る”の本当の意味を知った、恋もした。
浪人で得たものは学力なのか、合格なのか、それとも。
昔、父に言われた。
『お前は何かを達成したことがない。このまま終わるのか。』
そのときは反抗した。
今なら父の言ったことを理解できる気がする。
受験じゃなくてもよかったんだ。なんだっていい。花屋さんになることでも、アイドルでセンターになることでも、コマ回しの世界チャンピオンになることでも。
ただ『やる!』と決めたことを貫き、やり遂げれば。
幼稚園の時に無邪気に叫んでいた夢に、漸く一歩近づいた。
今年は心に暖かい雨が降りそうだ。